人の世は「きれいごと」で溢れている。
それはみんなが「きれいごと」求めている、つまり「きれいごと」の需要が世の中に溢れているからに他ならない。
人々はなぜ「きれいごと」を好み、求めるのだろうか?
それは人々が真実を知りたいと思いつつも、ドロドロとした醜悪な現実から目をそらし、耳障りの良い「きれいごと」を最終的に好むからだろう。
私自身は、自分でも「きれいごと」をよく言っているにも関わらず、自分以外のひとが言う「きれいごと」にはどうも親しみが持てない。
たとえ、その「耳障りの良い」一見正論と思われるような意見が、本心から出ているとしても、その論理が綺麗にまとまっているほどに、それは“本心からではない”「きれいごと」なのではないかと疑ってしまう自分が居る。
逆に、私のような天邪鬼(あまのじゃく)で偏屈な考えの裏を突いて、敢えて「きれいごと」を一切いわない、人に嫌われるような「反きれいごと」を言いまくる人もいるが、そういう人は往々にしてセオリー通りの嫌われ者であり、単なる変人扱いされがちだ。
嫌われることをわかっていて、ひとに嫌われるようなことを言うひとというのは、ある意味正直で誠実と言えるかもしれないが、「きれいごと」があまり好きになれない私ですら、本当の事を言われると大抵気分を害するものだ。
つまり、「きれいごと」とは、本来は余り綺麗でない、とげとげしたものを覆い隠して当たりを良くする人間社会の潤滑剤としての必要悪ともいえる。
「きれいごと」ばかりを聞かされていると、問題の本質を考えない馬鹿になってしまいそうだが、だれも「きれいごと」を言わない世界など、ギスギスして住めたものではない。
特に日本人というのは、西洋人と比べても「きれいごと」が好きな気がするが、西洋人の「きれいごと」と日本人の「きれいごと」は本質が異なるのかもしれない。
「きれいごと」=「綺麗事」とは、現在主に使われる意味では、「現実を無視して、表面だけを取り繕うこと。」というあまり良い印象の表現ではないが、語源的には「手ぎわよく美しく仕上げること。」また、「よごさないできれいにすますこと。」という最終的にきれいに仕上げる様を言っているようなので元々は悪い意味はなかったようだ。
日本人は古来から、できあがりの綺麗な状態を好む傾向が強いように思われる。
たとえば、能や歌舞伎、剣術・武道にしても、カタ(形・型)が重視されてきた。
完成されたカタ(形・型)は美しい。
たとえそれを身につける為に、血のにじむような修行を積む必要があったとしても、人々が憧れるのは常に完成されたカタの美学だ。
完成された美を持つものは、結果として未完成で荒削りのものよりも強い。
圧倒的な完成されたカタの美を見せつけられたら、その時点で負けは確定したも同然だ。
日本人は伝統的にそういうことを理解していて、カタに囚われず醜く必死に悪あがきすることを好まないし、ルールに反してでも勝とうとすることも美徳ではない。
日本人の「きれいごと」好き性質には、そういった伝統的に培われてきた「完成されたカタを崇拝する精神」というものが背景にあるように思われる。
「きれいごと」とは、英語ではどのような表現になるのだろう?
a whitewashとか、high-sounding wordsとかfine-skillとか、fine-sounding talkとか、sugarcoatなんてのもあり、sugercoat = 砂糖をまぶした というのはなかなか近い表現だが、現在日本で使われるいわゆる体裁を取り繕うといった意に近いのは「cosmetic」=表面を取り繕った(superficial)という表現かもしれない。
「きれいごとを言うな!」の英訳は、「Don't sugercoat it !」とか「Stop fine-sounding talk !」などが一般的だが、私なら「I'm fed up with your fuxxin' cosmetic words !」とか言うかもしれない。
西洋人も体裁は気にするが、物事に対するyes/noははっきりしており、好きでも嫌いでもないとか、はいでもいいえでもないとか漠然としたことは余り言わないし、I don't know(わからない)というような曖昧な返事ばかりしているとアホだと思われる。
日本人のよく言う「きれいごと」は、事実をぼかして人を傷つけないようにするというものも多いが、日本人の伝統的カタの美学や道徳観を理解できない西洋人から見れば、単なる嘘に過ぎない。
西洋人が、本音ではない嘘を言う場合は、政治やビジネスといったものごとの駆け引きの時に戦略的な意味合いが強い。
心にもない美辞麗句を並べ立てて交渉相手におべっかを使うようなケースだ。
日本人でもそういう「きれいごと」の使い方もするだろうが、どちらかと言えば、倫理的、道徳的な意味で、相手の心に働きかけるような使われかたのきれいごと(嘘)が多いような気がする。
西洋人の「きれいごと」は戦術的(tactical)で、日本人の「きれいごと」は感傷的(emotional)な感じだ。
はたして、投資の話に「きれいごと」はいらないのか?
それとも、投資は「きれいごと」で成功するのか?
「お金の話にきれいごとはいらない」という本と、「投資はきれいごとで成功する」という対極的な2つの題名の本を見つけたが、一体どちらが本当なのだろうか?
お金や投資の話に、そもそもきれいごとは存在しないと思われるが、きれいなお金や汚いお金という表現もあるし、お金の使い方がきれいだとか汚いとか言われることもあるので、要は物事の見方の違いに過ぎないのかもしれない。
ある人が昔言っていたが、クレジットカード払いでするRL360やITAのオフショアの積立プラン(オフショアセービングプラン)などはきれいな投資法と言えるかどうかはわからないが、「スマートな投資法」であることは間違いない。
そして形が「スマートな投資法」というのは、強い投資法であるとも言える。

